【偉人が没頭したこと1】ココ・シャネルが没頭した芸術家たち

【偉人が没頭したこと1】ココ・シャネルが交流した芸術家たち

偉人が没頭した「何か」。

偉人はなぜそれに没頭したのか?時代背景は?その後どうなったのか?、を追っていく連載「偉人が没頭したこと」。

第1回目は、ひとつの時代を築いた偉大な女性、ココ・シャネル。

2008年に、『ココ・シャネル』、2009年に『ココ・アヴァン・シャネル』、『シャネル&ストラヴィンスキー』と3本立て続けにシャネル映画が公開されたので、この時期に多くの女性が「シャネルという人」を知ったという人も多いかもしれない。

映画では、主に仕事や恋愛がフォーカスされて描かれているが、『シャネル&ストラヴィンスキー』の映画ように、シャネルは多くの芸術家と交流があった。

そこからインスピレーションを得て、服や香水を作った。ロシアバレエの音楽家ストラヴィンスキーについては、彼の家族をシャネルの自宅に住まわせたというほど、才能に惚れ込んでいたという。

シャネルが生きた時代背景

ココ・シャネルこと、ガブリエル・シャネルは1883年8月19日に生まれた。日本はこのころ明治時代。

シャネルは孤児院で育ち、その後お針子で生計を立てながら、歌手を目指すようになる。だが、歌手はうまくいかず、資産家のエティエンヌ・バルサンという将校に気に入られ、そのまま彼の家に移り住むことになる。

そこではじめた帽子作りが、ココ・シャネルというブランドを築く第一歩となった。そこから、また別の実業家から援助を受け、自分の店を持つようになった。このころ、第一次世界大戦が開戦。シャネルの戦争の影響を受けながらも成功をおさめていく。

シャネルはなぜ芸術家に没頭したのか

きっかけは、当時のパリの社交界を代表したミシア・セール(本名は「マリア・ゴブデスカ」)と言われている。ミシアの両親はともに芸術家で、幼い頃からピアノの才能を持っていた。

そしてシャネルとは対照的に、3回も結婚したミシアの最初の夫は、ポーランドの大富豪の息子タデ・ナタンソン。彼は『ラ・ルヴュ・ブランシュ』という、文芸誌を発行していた。夫婦で芸術家を支援するサロンを開くようになり、一気に画家や作家などとの交流を広げ、ミシアの美貌も手伝い、サロン界で有名になっていった。そして3番目の夫は、スペインの画家ホセ・マリア・セール。この時代が一番彼女の全盛期だったという。

シャネルが交流した劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキー、プルーストなどは、このミシアの人脈から得たものだ。

彼女が芸術家に惚れ込んだのは、その才能を見極める力があったからではないかと言われている。自分で築いた財産を、見返りを期待することなく、アーティストたちへ注ぎ込んだ。でも、そこはココ・シャネル。彼らからヒントやインスピレーションを得て、新しい製品を世に生み出していった。世界的に大ヒットした香水、「No.5」もこの頃に発表された。

シャネルのその後

もちろんシャネルが没頭したのは、アーティストたちだけではない。

彼女が没頭したのは、1にも2にも仕事だ。日曜日が嫌い、という有名なエピソードは知っているだろう。とにかく彼女は働くことが生きることだったのだ。それは孤児という生まれがそうさせたのではないだろうか。

そして、何度も恋愛をしたが、一度も結婚することはなかった。シャネルは一度ひっそりと過ごした時期もあるが、長い間働き続けた。その結果は見ての通り。世界中にシャネルのショップがあり、ココ・シャネルを知らない女性はいないだろう。

彼女が生きた時代に、結婚をすることなくがむしゃらに働く女性は、まれだっただろう。今の時代に彼女を見て何を学べるだろうか。結婚をしないことも、がむしゃらに働くことも当たり前になっている。

彼女から学べることは、「きらびやかなドレスは必要ないのではないか?」「苦しいコルセットなど誰もつけたがらないのではないか」という時代の流れを見ながら、「世間が欲しがるものを投入した」ことだろう。

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